笑い

​ 先日、天満天神繁昌亭のこけら落とし公演に行ってきた。繁昌亭とは、関西で六十年ぶり復活した落語専門の寄席である。寄席で落語を聞くのは初めてだった。以前わりと大きな多目的ホールの方で落語を聞いたときは、豆粒のような噺家の声が壁側から聞こえて妙だった。

​ 前些时日,我去了天满天神繁昌亭的开幕演出。说到繁昌亭,是关西六十年来首次复建的寄席,专门用于落语表演。我也是头一回在寄席听落语。以前在算是大多功能厅听落语的时候,听到从墙壁那边传来的像豆粒一样小的噺家声音,感觉甚是奇怪。

  • 天满天神繁昌亭:天満天神繁昌亭(てんまてんじんはんじょうてい)は、大阪府大阪市北区天神橋二丁目にある寄席。上方落語の定席の一つで、落語を中心に、漫才、俗曲などの色物芸の興行が連日執り行われている。通称「繁昌亭」。
  • こけら落とし:こけら落とし(こけらおとし、杮落とし)は、新たに建てられた劇場で初めて行われる催しのことである。ただし、こけら落とし公演は来場者数が多くなり、出演者も大物であることが多いことから、実際には公演に当たっての手順を確認するなどといった名目でオープン後に複数の準備公演を実施してから正式なこけら落とし公演をするケースが多い。
  • 落語:落語(らくご)は、江戸時代の日本で成立し、現在まで伝承されている伝統的な話芸の一種である。最後に「落ち(サゲ)」がつくことをひとつの特徴としてきた経緯があり、「落としばなし」略して「はなし」ともいう。「はなし」は「話」または「噺」とも表記する。
  • 寄席: 寄席(よせ)とは、講談・落語・浪曲・萬歳(から漫才)、義太夫(特に女義太夫)などの技芸(演芸)を観客に見せる興行小屋である。
  • 噺家: 落語家(らくごか)は、落語を演じることを職業とする人。戦前は、寄席がおもな活動の拠点で、グループを組んで地方公演も行っていたが、戦後はその話術を生かしテレビやラジオの司会業、パーソナリティなどを行うことも多かった。話家・噺家・咄家(はなしか)は、「落語家」の古い表現である。

​ 繁昌亭は席数二百ほどで二階席もあり、最後列からでも噺家の表情まではっきり見える。私は前から二列目に座り、生の落語を初めて楽しんだ。会場は補助椅子が出るほど人がいっぱいで、若い女性もたくさんいた。この人気がいつまでもつづけばいいが。

​ 繁昌亭有两层,共约二百个座位。即便是最后一排也能清楚地看到噺家的表情。我坐在前面第二排,第一次体验了现场的落语。会场满是人,其中有不少的年轻女性,人多到要搬出临时座位的程度。要是这份人气要是能一直持续下去就好了啊…

​ 初見の中堅噺家の噺の半ばでオチが見えたとき、私はしらけるのではなくどのようにオチまで持っていくのかを見守った。結果うまく運んだので大いに笑った。

​ 这是我第一次听这位中坚噺家的表演,听到一半儿就能猜到结尾了。不过,我也并不觉得无趣,反而想看看他是怎么抖这个包袱的。结果他处理得非常好,我不由得大笑出声来。

  • オチ:落ち(おち)とは、笑い話など物語の結末のこと。多くの場合おかしみのある部分だが怪談などの結末も指すため一概には言えない。下げ(さげ)とも言う。

​ オチが見えたあとでも楽しめるのが落語だ。聞き手は噺の内容だけでなく話芸に期待している。だからCDやDVDでおなじ噺家のおなじ噺を何度でも聞くこともできるのだ。しかしそれができる噺家はそうそういない。件の中堅噺家のおなじ噺をもう一度聞きたいとはあまり思わない。ちがう噺ならいいが。

​ 即便猜到了结尾,仍能享其乐,正是落语之魅力所在。正因为听众不仅期待落语的内容,更期待话艺的表现,才能愿意通过CD和DVD一遍又一遍地欣赏。但能做到这一点的噺家实在是少之又少。对于我方才所讲那位中坚噺家的故事,我倒是不太想再听第二遍了,嘛,要是别的故事的话另当别论。


​ 気の置けない幼なじみが何人も集まって飲む機会がけっこうある。その中に、人を笑わせるのに生きがいを感じているやつがいる。クラスにひとりやふたり必ずいるタイプだ。彼はいつも、仲間のだれかの十代のころから直近までの失敗談をおもしろおかしく語る。ネタにされるやつも、彼がプライドを傷つけるようなことを決していわないのを知っているから、安心して自らのネタで笑う。彼はこれまでおなじ話を何度もしたが、毎回大爆笑になる。もちろん、いつもまったくおなじではない。居合わせたメンツや雰囲気によって、デフォルメしたり誇張したりする。

​ 我和几位直言不讳的青梅竹马经常有机会聚在一起喝酒。在我们几个当中,就有一个以逗乐别人为生的家伙,就像班里总有的那一两个人的类型似的。他总是把弟兄们从十几岁到最近的失败经历讲得幽默风趣。被拿来做笑料的伙计也知道,他从不说什么会伤害别人自尊的话,所以大家都能开怀大笑。虽然这些事总是翻来覆去的讲,但每次都惹得哄堂大笑。当然了,也并非每次都完全一样,根据在场的人和气氛,他也会适当夸张或调整一下内容再讲。

  • ネタ:人をかつぐための、真実めかした作り話。悪意のある嘘ではなく、相手を笑わせたり軽くからかったりする程度である場合をいう。「彼の失敗談は—だろう」
  • デフォルメ:デフォルメ(仏: déformer、動詞)、デフォルマシオン(仏: déformation、名詞)とは、絵画や彫刻などで、対象を変形・歪曲して表現すること。

​ 私も十代のころの失敗談には欠かずよくネタにされるのだが、やった覚えのないことまでいわれるときがある。そんなことしてないぞというと、なに忘れとんねん、と笑ってやり返される。するとそれ以上否定できなくなる。むきになるとしらけてしまうだけだ。私がそれをやったやってないは誰にも問題ではなく、みんなが笑い楽しめればいいというわけだ。

​ 我十岁左右的失败经历也经常被当作笑料,但有时他们说出的一些事,我根本记不得我做过。当我说“我可没做过那种事”,他们就会笑着回我“你忘了吧”,然后我就无法再反驳了。反倒是如果我真的较真,气氛就会变得尴尬了。说到底有没有做过那些事其实也并不重要,大家当个乐呵开心就好了。

​ 私も大阪人だからサービス精神は旺盛である。彼のような男がいれば任せるが、仕事などであまり顔なじみでない数人が居合わせ、会話を引っぱる人が見当たらないようなとき、その役を自ら買って出る。沈黙は嫌ではないが、気まずい思いは避けたいのだ。それにどうせいっしょにいなければならないのだ、楽しいほうがいいに決まっている。

​ 大阪人的服务精神都比较旺盛,而我也是一样。如果像他那样的人在场,我就能放心让他负责。但如果有一些不是特别熟悉的同事在场,又找不到能带动话题的人时,我就会主动承担这个角色。倒也不是说我讨厌沉默吧,我只是更想避免尴尬的氛围。而且,反正大家都得待在一起,一起乐呵乐呵总比冷场好。


​ これが、肩書き以外あまり知らない人とふたりきりだと、むずかしくなる。波長があって会話が弾むこともまれにあるが、たいてい互いに慕うもんばかりになって話がおもしくない。三人以上がなぜんいいかというと、そのうちのひとりをネタにできるからだ。いじられキャラに仕立ててしまう。この人はいじってもだいじょうぶかどうかは瞬時に判断できる。たいてい私より年少の男性だ。そのほうが遠慮なくいじれる。私はいじられもいじりもするのだ。(これをMとSに置き換えようかとも思ったが、話がちがってくるのでやめた。)

​ 不过,和除了职称以外几乎不太熟悉的人单独相处的话,就会有些棘手。虽然也有很合得来聊的很投机的时候吧,但是通常大家都是相互敬重的类型,话题也就平平淡淡的。为什么三个人以上比较好呢?因为可以拿其中一个人当笑料。通常我会把他塑造成一个可以被“开玩笑”的角色。至于能不能拿他开玩笑,我能很快判断出来。大多数时候是比我年轻的男生,这样我就可以毫不顾忌地逗他玩。当然了,我既有取笑别人的时候,也有被别人取笑的时候。(我曾想过用M和S来替代这部分,但这样会改变话题,所以还是放弃了。)

  • 波長が合う: 「波長が合う」の意味は、「ものの考え方や感じ方が似ている」ということです。
  • 会話が弾む:楽しかったり興味深かったりして、会話が活発に続く。

​ いじり役といじられ役がいて、それを「観る」人がいる。つまり、漫才である。いじり役は常にいじられ役と「観客」の反応を見ていて、行き過ぎに注意する。どこまでいじられるかの判断を余り誤ったことはない。これは長年の訓練のたまものである。

​ 总有“取笑者”和“被取笑者”,还有“观众”在一旁观看。换句话说,这就像是漫才,取笑者会时刻观察被取笑者和“观众”的反应,注意不能做过火了。对什么时候该停手,取笑到什么程度的判断,几乎从未出错。这正是多年来训练的成果。

​ ときにいじり役を「観客」に投げることもある。彼(彼女)がそれを受け取りうまくやりこなせば任せるし、戸惑うのなら戻してもらう。いじられ役も雰囲気を見て随時変更する。これがうまく回り出すと、場は爆笑の渦になるのだ。

​ 有时,取笑者也会把包袱丢给“观众”。如果他(她)能接得住并且处理得当,我就放心地把包袱给他(她)了;如果有些犹豫不决,那就让我来接回去。被取笑者也会根据气氛随时调整角色。一切顺利的话,场面便会变得欢声笑语不断。

​ 私は気取りからは縁遠い男なので、気取った人は苦手だ。気取った人は当然いじられるのが嫌である。そういう人と私はあまり会話が成り立ったず、場を沈黙が支配する。ところがまれに、一見気取っているがじつはいじってほしい人がいるのだ。それを発見したときは、徹底的にいじってやる。もちろん、ふたりきりではそんなことしない。それではただのいじめだ。「観客」がいるからこそ、いじってやろう、またはいじられてもいいかと思うのだ。居合わせた人に楽しんでもらえればうれしくなる。

​ 我这个人一向不喜欢做作,因此对做作的人不太感冒。当然了做作的人也一般不喜欢被取笑。和这种人,往往没法聊得开,气氛也会陷入沉默。不过,偶尔也会遇到看起来做作,实际上却希望被取笑的人。察觉到了的话,我便也会毫不客气地取笑他。当然,如果只有我们两个人,肯定不能这么做的,那样就成了欺负人了。正是因为有“观众”在场,才敢去取笑别人,或者说被取笑也无妨。只要能让在场的人开心,我就心满意足了。


​ 笑いは人間関係の潤滑油であり緩衝材だ。笑いあっているうちは諍いは起きない。おもしろいことをいって笑わせてやろうか思ったとき、人はその相手に好意しか持っていないのだ。

​ 笑声是人际关系的润滑剂。只要大家在笑,就不会发生争执。当你想说点有趣的话让对方笑时,说明你至少对那个人是抱有好感的。

​ しかしこれが仕事となれば話は別のようだ。繁昌亭では七人の噺家が高座にあがった。噺家が終わって幕が下がりきるまで、みんな手を床について頭をずっと下げ続けている。私の席からその表情がよく見えた。笑ったいる噺家は一人もいなかった。みんな疲れた顔をし、中には怒っている噺家もいた。おそらく噺の出来に満足できず、自分に怒っているのだ。まさか、なぜんもっとウケないんだと客に腹を立てる噺家はいないだろう。たぶん。

​ 不过,如果是工作的话就另当别论了。在繁昌亭,七位噺家上台表演。当噺家结束后,幕布完全落下之前,大家都双手撑地跪在地板上,头一直垂着。从我的位置可以清楚地看到他们的表情。没有一个噺家在笑,大家都面带疲惫的神色,其中还有几位噺家看起来有些生气的样子,大概是对自己的表演不满意吧。应该不会有噺家因为“”而对观众生气吧,应该吧…

  • 高座: 高座(こうざ)(寄席(よせ)の舞台)のこと。

​ 人を笑わせるのに疲れたり怒ったりするのだから、笑いを仕事にするというのは因果なことだと思う。

​ 让人发笑却让自己感到疲惫甚至生气,看来把笑声当成职业,真是一件带有宿命意味的事。


笑い
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作者
栗かな
发布于
2025年1月8日
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